ひとつものを様々な視点から見る必要性
先日、NHKにて「コロナ新時代への提言2 福岡伸一×藤原辰史×伊藤亜紗 」という番組がやっていました。
非常に興味深い内容でヘルスリテラシーにも関係があるなと感じたので少し書かせていただきます。
ヘルスリテラシーにとって大切なものの一つに、多角的な視点で見るということがあります。
人それぞれ立たされている立場も違いますし、背負っているものも違います。
立場や背負っているものが違えば前提条件が変わってきますので、出る答えも変わってきます。
意見というのは、一つの立ち位置から見た視点であるということです。
言語や思考、論理は直線的に進んでいきます。そこで重要なのはどうゆう前提のもとで進んでいるかということです。
最近は文字による情報や時間制限のある中での言葉などが多くなってきているので、前提条件やその人の立場、前後の文脈やその場の雰囲気などを踏まえずに伝えられることが多くなり、本人が意図しない伝わり方をすることも多くなっているように思います。
発信者や仲介するものの問題だけでなく、多くの情報を受け取り、処理しなければならない受容側がこのようなことを理解して情報を得ないといけないのです。これが情報リテラシーです。この情報が健康に関することでしたらヘルスリテラシーとなります。
例えば、今回のコロナに関しても医療の視点で見るのか、経済の視点で見るのか。
ウィルスそのものが悪いと見るのか、ウィルスによって暴走を起こすその人の免疫システムが悪いと考えるのか。
様々な意見があり、様々な視点の中で、自分や周りの人々、次の世代にとって良い落とし所を見つけていくことが大切です。
最高な選択というのはほとんどありません。一つの視点では最高でも他の視点では最低かもしれません。ですので落とし所を探すのです。限られた条件の中で。
コロナ新時代への提言2 福岡伸一×藤原辰史×伊藤亜紗
前置きが長くなりましたが、番組の話です。
少し前よりも落ち着いてはきましたが、連日報道されるコロナ関連のニュースとはまた違った目線で今回のコロナについて生物学者の福岡伸一さん、歴史学者の藤原辰史さん、美学者の伊藤亜紗さんの御三方は語っています。
現在のコロナ禍のあり方や自粛警察、感染者や医療従事者への誹謗中傷などについてそれぞれの視点から警鐘を鳴らしています。
生物学者 福岡伸一さんの視点
まず、生物学者の福岡伸一さんは今回のコロナについて宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」から見えてくるものがあるのではないかという提案から始まります。
ナウシカの中で登場する言葉でピィシス(自然)とロゴス(言語・論理)というものを中心に話は進んでいきます。
現代の文明社会は本来自然(ピシィス)の生物である人間が言語や論理(ロゴス)を手に入れ、それによって動物というものから一歩外へ出て文明社会をつくり発展していきました。
文明が発展していくにしたがい、ロゴスによってピシィスの制限が起きると言っています。
これは私もカイロプラクターとして感じるところです。現代社会では知識は増えているけども、本来人間が持っている能力や感じる力を発揮できなくなってきています。
そして現在のコロナ禍での状況で考えると、論理や科学的なものによって私たちは移動の制限や行動の制限など、様々な制限を受けています。
美学者である伊藤亜紗さんは人間自体がロゴスとピシィスの間で常にせめぎ合っているようなものだと言います。
制限を受けることによりより、ピシィスとしての人間の欲求が高くなってきているようだと語ります。
ネット回線を使った会話ではなく、実際にあって話したい、触れたい、感じたいといったことです。
次にウィルスを排除し、コロナに勝とうという風潮にも提案をします。
生物学者の福岡さんはこう語ります。
ウィルスというものに昔から人間は触れてきており、これからも触れていくことになる。それを全て排除することは不可能である。
そして、私たちはウィルスによる恩恵も受けている。
私たちはDNAを自分の代から次の代へと垂直方向にしか受け渡せないが、ウィルスは水平方向へ広げる。宿主Aから宿主BへDNAを移動させることができる。
また、宿主の免疫システムを刺激・調整するという働きもある。
人間というのは本来、不潔な生物であり、いき過ぎた消毒文化というのはウイルスから受けていた様々な恩恵が受けられなくなる。
つまり、ロゴス的に走りすぎることで、ピシィスの逆襲をうけると語ります。
歴史学者 藤原辰史さんの視点
次に歴史学者の藤原辰史さんは歴史から今回のコロナ騒動を見ています。
歴史から見ると私たちは「不安にかられると分かりやすさや単純なメッセージを求めがち」だと言います。
戦時下のおいて指導者はそれらの言葉をうまく使い民衆をコントロールしていきます。
コロナを勝つか負けるかという基準で見ていないかということにも警鐘を鳴らします。
戦時中に勝つということが絶対の正義の場合、勝つということに対して足を引っ張るものを攻撃するという行為が生まれます。
設定として「あなたは正しい」というものができるからだと言います。
これはこのコロナ禍でも起きたことで自粛警察などと言われました。
しかし、この渦に巻き込まれると「あなたは正しい」とということを点検する自分が消えていく。つまり自分の立ち位置は本当に正しいのかと考えることができなくなるのです。
次にナチスドイツを例に語ります。
ナチスドイツのコンラート・マイヤーは自然との共生という言葉を使い、化学肥料をなるべく使わない動植物との共生を国家として目指したが、それと同時に彼の頭の中には、人間は他の人種と共生できないという人種主義も共存していた。
それは高貴な性質を持ったアーリヤ人以外は排除されるという行為に結びついていきます。それがユダヤ人の大虐殺につながったと語っています。
ナチスの研究者のH・P・ブロイエルはドイツを「潔癖な帝国」と語っています。別の民族は穢れを持っているから自分たちの民族共同体に入ってくるのを排除しようとする。
このような潔癖主義は無駄だとか邪魔だというものを一斉に消したくなる。
人間の人間に対する潔癖なクレンジング、人間以外の生物に対する潔癖なクレンジング。潔癖主義というものはいつも感染する。いき過ぎた潔癖主義は自分たちの行動を狭めていくと藤原さんは語ります。
綺麗過ぎるものや完璧なものを求め過ぎるのは危険だ、人間というのは穢れと清潔さを併せ持つものだと言います。
動植物と人間であり、人間と人間であり、そう簡単に共生はできない。そう考えていたほうが良い。そこには対立が生まれるが、対立を対立として受け止める必要がある。
そして解決するために思考停止してはならないと語ります。
この番組を受けて私の視点
番組のタイトルにもあるように、御三方は今のコロナ禍に対して「提言」を行っています。
提言とは自分の考えや意見を出すことです。
それぞれの立場からの提言です。
これらによって私たちは立ち止まったり、考えたりすることができます。
私もこの番組を見て、それを私の頭を通してヘルスリテラシー という方向に提言させていただきます。
ヘルスリテラシーというのは情報を扱う力です。
情報というのは言葉であり、論理です。
つまりロゴスということです。
ロゴスをうまく扱うことが私たちの体であるピシィスを健康に導くのに必要なのです。
決してロゴスに操られてはいけないのです。
文明社会で生きていくためにはロゴスと共生していくための能力が必要なのです。
藤原さんが言うように、それは簡単なことではありません。
論理とは物事の順序です。それらは物事に名称をつけることから始まります。
それが言葉です。
言葉というのは定義が必要です。
定義があると境界ができます。
私とあなた。頭と首。黒人と白人。県外と県内。
その境界は区別を生み、差別を生むこともあります。
科学は言葉によって作られます。何かを定義して分別することから始まります。
科学的すぎることもまた危険です。
感覚に頼りすぎることも文明社会では危険です。
思考は頭の中で言葉によって行われ、感覚は身体によって生じます。
ですので私という体を通して感じ、頭で考えることが必要なのです。
文明社会を放棄して自然の中で生きていくには言葉は必要ないかもしれません。
しかし、そのようなことはできない私たちはバランスをとるしかないのです。
私たちは様々な間で生きているということです。
この番組を受けて、コロナ禍において潔癖主義をやめよ、ウィルスとは共生していくべきだと予防をやめてしまうのは考えものです。
しかし私たちは度々いき過ぎてしまうことがあります。その時にブレーキとなるような提言というのは必要です。
アクセルとブレーキをうまく使ってこそ事故をせずに進むことができるのです。
このコロナ禍で未知のウィルスに対して私たちは手探りで答えを探しています。
そんな中で必要なのは、考えること。そして一人の頭ではなく、多く人々の頭を使い様々な視点から捉え、落とし所を探すことではないでしょうか。
正解はひとつではありません。
変わっていく世の中でバランスを保つためには動き続けることが必要です。
コロナ禍でもそうですし、自分の健康が脅かされたりした場合不安にかられます。
歴史学者の藤原辰史さんがいうように不安があると確かなものを求めたくなります。、権威のある方が発言する言葉であったり、エビデンスがある情報であったり。
それらは不安で立ち止まってしまう足を前に進めるために必要です。霧の中でこちらに進んでくださいと案内してくれます。
しかし、そのエビデンスというものはなんなのか。エビデンスを作り上げる科学とはなんなのか。自分が立っている土台をチェックすることもまた必要なのです。自分を正当化するために土台のチェックに目を瞑ってしまわないようにしなければなりません。
自分が立っている土台が不安定なものだと気づくことで、停止せずに用心深く動き続けることができるのです。
ヘルスリテラシー とは文明が発展することによって必要になってきた新しい能力です。
人間そのものが昔から、その時、その環境にうまく適応することで生き延びてきた動物です。
ですので、この時代を生き抜くためにもヘルスリテラシー が必要ではないかと私は思います。
著者 濱口貴洋
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